駄文

 

「生きながら死んでいる人間」

 

村上龍はとある小説の中でホームレスをそう表現した。社会性を放棄しながら社会に依存する存在、現に私はそのような存在に私もなりつつある気がして恐ろしいと感じている。

 

恐ろしい、という感情はある種の衝動であるのではないかと思う。

だが、この恐ろしさは緩慢で駅のホームの列車の通過警告に鳥肌を立てるあの感覚とは異なる。

社会性を失いつつある人間に取り憑く自らへの恐怖という緩慢な衝動は、時をかけて精神を蝕み理性を狂気の淵にまで追いやっていく。

だが、その理性自身はバビ=ヤールの崖の縁に足をかけるまでその歩み行く先の狂気という帰結に気づく事が出来ないのである。

 

狂気に呑みこまれた人間の精神はどうなるのであろうか。

私はここに今、私が抱いて止まない希死念慮の理由を求めたいと思う。

 

社会性を失った人間の中には、凶悪な犯罪を犯すものもいる。彼等は一般的に、元来社会性を持ち合わせていないか、若しくはとある契機をもってして社会性を失ったかの2つのパターンに大別される。

前者にはサイコパシーや他者への過剰な嗜虐願望などの性質が見られるのに対し、後者は自らが社会からドロップアウトしたことによる内的葛藤や、劣等感、疎外感などが含まれる。

しかし、前者と後者の最も異なる点は、前者が社会への自らの帰属に一般的に固執しないのに対し、後者は社会に対して自らのエゴの浸透を酷く望み、その結果として得られる自らの社会性の復帰を望んでいるという点にある。

 

以上のことは私が今迄読んだ文献や体験記に基づくものだが、こうした比較をしてみると、どうやら私が恐れているのは自らが後者のような狂気のうちに囚われて、社会性及び社会そのものを否定し続けるうちに伸びきった糸が切れて何かしらの反社会的行動を起こしてしまうことのようである。

 

この私の考えを先程の村上龍の小説からの引用に照らし合わせてみると、明らかに私は社会性を喪失しつつ、社会に依存する存在になりつつあることが分かるだろう。私はそのような自分自身を酷く恥じ、日々、断続的にゆっくりと理性が蝕まれ腐敗していくことへの恐怖という緩慢な衝動に囚われ、最終的に穢れた存在となる前に死による浄化を望んでいる。

生きながら死んでいる人間を救済する、最も手軽な手段は真に死することそのものに他ならないのかもしれない。